Subscribed unsubscribe Subscribe Subscribe

no.1 「A.I.」(2001)

映画「A.I.」(2001)はもともと、スタンリー・キューブリックの企画であったが、同氏が死去したため、スティーブン・スピルバーグにより監督されたSF映画である。そのため、映画そのものに対する評価に加え、「キューブリックだったら」という無意味な批判に長年、そしてこれからも晒されることになるであろう作品である。

人工知能が人間の能力を超えることで起きる出来事を技術的特異点、すなわちシンギュラリティと呼び、アメリカ合衆国レイ・カーツワイル氏は著書『The Singularity Is Near:When Humans Transcend Biology』で、その特異点2045年に訪れると指摘している。これを2045年問題とし、人工知能(AI)の開発については肯定的とする声が多いながらも、危険視する見方があとを断たない状況ではあるのだが、これはAIに限らず、技術的革命は常にそういった議論に立ち向かいつつ進歩してきた。つまり、いくら否定的な意見が出たとしても、AIの開発は進み、間違いなくシンギュラリティは訪れるのである。ちなみにレイ氏は2012年にGoogleに入社し、現在AI開発の総指揮を執っている。

私たちの周囲に目をやると、例えばiPhoneに搭載されているSiri、LINEでやりとりのできるAI女子高生「りんな」、家電でいえば「ルンバ」をはじめとするスマート家電、開発の進む自動運転車などが挙げられるだろう。かなり大雑把にまとめて、これが2017年時点でのAI事情だ。翻って、2001年。日本では99年に発売された犬型ロボットAIBOや00年に登場した二足歩行ロボットASIMOが一般的に認知されているのではないだろうか。
AIBOソニーがロボット事業から撤退したため、05年に製造終了、14年にサポートが終了したことにより、ロボットでありながら、生身のペットと同じく、「寿命」を得てしまうという皮肉な現象が起きてしまったことで話題になったが、昨年ソニーはロボット事業に再参入した。

映画に話を戻そう。「A.I.」で主役を演じたのは「シックス・センス」で広く知られるようになった元・天才子役ハーレイ・ジョエル・オスメントである。過去の功績が輝かしいばかりに、彼の現在をみて、僅かに残る面影に深い溜息を漏らす人も多いかもしれないが、14年に日本でも少数のシアターで上映された「SEXエド チェリー先生の白熱性教育」で「童貞なのに性教育の教師になってしまった」という甘酸っぱすぎる役を演じるハーレイに色々な意味で期待を寄せてしまうし、本国での彼の俳優としての立ち位置がどのあたりであるのか不明にせよ、日本未公開の作品が多いだけで、俳優活動は続けているらしいので、彼がいつか華々しく日本のスクリーンに戻ってくる可能性を捨てるべきではないと思う。

そういうわけで、一時は日本でもだいぶ持て囃されたハーレイ主演ということや、近未来SFというよりかは感動モノとして宣伝した効果によってか、アメリカよりも日本での評価が高かった本作。公開から16年を経た今、改めてこの作品に焦点をあててみたい。
というよりかは、実をいうと本作を観るのは初めてである。公開当時13歳だった私は、スピルバーグもハーレイも名前は知っていたがさほど興味はなく、さらに感動モノと銘打っている時点でまったく観る気がなかった。地元の片田舎にもこの映画の評判はしっかりと届いており、同級生の割と多くが観ていたにもかかわらずだ。
こうして当時を振り返りつつ、人間の趣味嗜好はこの頃から既に固まりつつあるのかと思うと、中学生時代の体験やら感性やらは大事にすべきであり、逆に軌道修正するにもこの頃なのかと思ったりする。

今回本作を観ようと思ったのも、感動モノとして評価したかったわけでなく、当時スピルバーグが、或いはキューブリックが、AIと人間の関係性をどのように描いていたのかを知りたいがためだ。そういう視点で観てみると、本作はまったくもって母と子(ロボット)の愛情の話でもなければ、人間がロボットに対して酷い仕打ちをする悲しい話でもなく、愛情を知ってしまった健気なロボットの身の上話ではないことに気付かされる。
また、前述したように、キューブリックが監督をしていればもっと残酷な結末であった、感動的な話にならなかった、などという指摘を度々目にするが、むしろスピルバーグは「親子の愛の物語」とすることでそれを隠れ蓑にし、本来のテーマを解りにくくすることで、観客を騙しているような気がしてならない。彼の真意がそうでないにしても、物語の本筋をそう簡単には語ろうとはしない構成に、キューブリックの気配を感じる。

ハーレイ演じるロボット、デイヴィットは食事を摂ったり眠ったりすることは出来ないが、その様相はほとんど人間の子どもそのものである。
ロボット工学者の森政弘氏が1970年に提唱した「不気味の谷現象」というものがある。人間はロボットが人間に似始めると最初は好意的な反応を示すものの、ある地点(人間に近い)に達すると、不気味だと感じるようになる。つまりグラフ化すると、一旦その地点でグラフの数値は底に落ちるのである。しかしロボットがさらに人間に近くなる(見分けがつかなくなる)と、再び好意的な反応を示すようになり、グラフは元の数値に戻るのである。
この原理を踏まえると、ハーレイの演技とスピルバーグの演出でまず評価すべきは、デイヴィットの初登場シーンにおいて、彼はたいへん不気味なのである。会話は非常に形式的であり、人の行動を真似ながら学習精度を上げていくAIの特徴をうまく捉えたシーン、行動を先読みして神出鬼没に現れる機械的な正答率の高さ、そうして彼の表情は人間が演じている以上間違いなく人間であるにもかかわらず、笑顔や、笑い声、人間を見つめる眼差しがロボット的、すなわち「人間に近い何か」なのである。これはまさにグラフの谷底に該当するだろう。そこから一変するのが、母親であるモニカがデイヴィットに愛情をインプットさせるシーン以降である。これをストーリー上では「愛を知ったから」としているが、この時点からデイヴィットの「人間に近い」表情は人間のそれと「見分けがつかない」表情へと変わる。このことにより、観客もまた、デイヴィットに対して好意を抱くようになり、次第にこのロボットには母性を求める感情があるのかもしれないと想像を巡らせ、この純真無垢なデイビットに自分を重ね始めるのである。

人間の仕事を奪い去るかもしれないと危惧されても、人間はAIの開発を続けている。なぜなら開発するメリットの方が大きいからだ。まず第一に、少子高齢化社会において絶対的に訪れる労働力不足の解決のため。それから、人間の肉体的技術では成し得ない高度な医療技術の発展、交通インフラ、食糧管理。あらゆる点においてAIを開発しないことは国の行く末に大きく影響する。しかし単にそれだけではなく、ある種文系的な視点なのかもしれないが、AIを研究することは人間を解明することに繋がるという声もある。

印象的なシーンが二箇所ある。
冒頭近く。人間(親)を愛してくれる子ども型ロボット、すなわちデイヴィットの開発会議中に、女性が質問する。ロボットが人間を愛するのであれば、人間もロボットを愛さなくて良いのか、と。
次いでジュード・ロウ演じるジゴロ・ジョーのセリフである。母親であるモニカがどれほど自分を愛してくれているのかを語るデイヴィットに対し、男娼であるジョーは「彼女も僕の客と同じさ。君のサービスに期待している。愛しているのとは違うんだ。愛するわけがない」と反論する。
この二つのシーンは、愛情に対する見返りの話をしている。
たいていの場合、人間は愛し愛されることを期待するわけだが、それらがすれ違い、ついに終焉してしまう原因は期待しただけの愛が返されないことによることが多い。すなわち相手に対する期待が外れたのだ。

デイビットが陥ってしまった不幸、プログラム・ミスは最初の女性の質問、すなわち愛の見返りに対する戻り値を曖昧にしてしまった点である。一方でジョーは、愛情を与えることに対する見返りは存在しないのだということを明確にプログラムされている。
これら愛情に関するプログラムをするのは一体誰か。それは人間に他ならない。母親が子どもを捨てる、本作に沿えばデイヴィットを捨てること。これに切なさを感じるのは、母親の仕打ち自体というよりかは、デイヴィットが無償の愛を一方的に母親に与えているにもかかわらず、母親がそれを返そうとしない(もちろんそこには様々な葛藤がある)、その不条理さに嫌悪感を抱き、それは本来許されるべきことではないという自らの欲求、期待が意識の底にあるからだろう。
他者に愛情を求める理由を、原始的な感性で答えるとするならば、生き延びるためである。共同体において愛を打ち切られることは死を意味する。それは人間でも動物でも同じであり、この近未来、つまり人間とロボットの関係性においても同じことといえる。
人間はAIを目の敵にするだろうか。しかしAIは人間の思考の反映であるとすれば、それは人間に非常によく似た存在であり、写し鏡への攻撃に他ならない。

人間とAIが愛をもって共存可能かどうかということよりも、愛情という複雑な感情を人間自身が解体し、数値化して組み立て直すということにより、その目的が何であるかということを描いたのが、今から16年前に公開された本作だったのではないだろうか。人間の思考やモラル、感情のパターンとそれを裏付ける行動。それらはAIの進化によって徐々に解明されていくのである。

Remove all ads

【スポンサーリンク】