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no.3 「虐殺器官」(2017)

 小説や漫画、或いは戯曲を映画化する際の製作側の様々な葛藤はいかばかりかと案じながら、むしろ生みの苦しみとしてそうであってほしいと願っている。ホドロフスキーは映画「DUNE」のインタビューの中で、「原作をレイプするのだ、愛をもって」というようなことを語っていた。私のなかで、彼のその言葉は「原作ありきの映画」を観る際の、一つの指標になっている。監督は原作をきちんとレイプしたのだろうかと。愛のあるレイプ、それ自体は矛盾している。しかし彼の語る文脈においては腑に落ちるのだ。原作に尊敬と愛情をもって、そうして自分の手で暴力的といえるほどの大胆さで作品を自分のものにしてしまうこと。

 原作を忠実に映像化したら尺がどれだけあっても足りないのだが、だからといって原作をおよそ120分程度に収まるよう編集しただけでは「忙しい人のための⚪︎⚪︎」と変わらない。原作の世界観をどのように解釈したのかということが映像化することへの最低限の意義であり、次に、原作のどの部分を映画の主たるメッセージとして観客へ届けるのか。その二つの出来栄えこそが監督と脚本家の手腕によるものであり、「原作ありきの映画」を成功させる要素の一つではなかろうかと思う。

 映画「虐殺器官」(2017)は2009年に死没した伊藤計劃氏の同名小説をアニメ映画化した作品である。2014年にノイタミナムービーの第二弾企画として「Project Itoh」と銘打たれたプロジェクトで、「屍者の帝国」(2015)、「ハーモニー」(2015)に続く最後の3作目。本作はもともと2015年11月公開予定だったが、制作会社が倒産し、新たにジェノスタジオを設立してから制作が再開されたという背景もあり、ファンの間では「待ちに待った」公開となった。

本作は伊藤氏の長編デビュー作品で、「ハーモニー」以前の世界とされる時代設定のため、時系列でみれば公開順では逆行することになってしまうが、2015年に公開されるべきだった本作が2017年まで延期されたことはむしろ良かったと思っている。舞台は9.11以降のアメリカで、現実には2017年時点で劇中に登場するようなテクノロジーも、特殊部隊も、世界的混乱も起きてはいない。しかし、伊藤氏が本作を発表した2007年時点よりも、ゆるやかにそれらは現実味を帯びてきている。本作と前後して現在公開中のオリバー・ストーン監督の最新作「スノーデン」を鑑賞した。現在進行形のスノーデン氏によるアメリカのスキャンダル暴露は、本作を観ているときに、微妙に重なり合うものを感じる。近年のアメリカの弱体化を象徴するかのようなトランプ政権の誕生など、9.11がアメリカに及ぼした影響が誰の目にも明らかになってきた今、2017年に本作が公開されたことは怪我の功名で、ある意味ベストタイミングだったといえる。

 原作で非常に重要な要素であった、主人公クラヴィス・シェパードと母親との関係性を映画では一切排除している。この要素なくして物語が成り立つのか疑問ではあったが、彼の抱える特有な問題を描かず、単なるいち軍人・クラヴィスという設定にすることで、120分弱という限られた時間内に、複雑な世界情勢、アメリカ政府の思惑などといった基本的な設定と、独特な近未来ミリタリー要素、それから、原作からできるだけそのまま使用したと言われる、登場人物たちの哲学的で、ときに文学的な台詞を散りばめることを可能にし、もともとの魅力はそのままに、原作を読んでいない人にもとっつきやすいシンプルな構造になっている。むしろ多くの人がクラヴィスの心情になりきることが容易くなったし、思考の解釈がしやすくなったといえるだろう。

 戦闘適応感情調整や痛覚マスキングをほどこされた彼にどのような痛みがはしろうとも、人間を殺そうとも、それは私たちの意思ではないし、同様に彼の意思かどうかもわからない。私たちは彼の視界を通して、人がばたばたと死んでいく様子を見つめながら、彼の意識と次第にシンクロしていく。一方で、「虐殺の文法」を見つけ出し、各国で虐殺を引き起こすジョン・ポールについてはまったく逆で、虐殺を引き起こすに至ったいきさつと、明確な目的が語られる。私たちはクラヴィスの行動を、あるいはジョンの思考を追体験することが可能だ。

 おかしなことにこの二人は真逆のポジションにいるにもかかわらず、目的の帰着する点は同じなのである。これは前述したように、クラヴィスと母親との関係性に関するエピソードをなくし、9.11以降のアメリカとそれにより引き起こされたサラエボでの事件をきっかけとする悲劇、虐殺の発生などといった争いごとを軸にしながら展開したため、原作よりも分かりやすくはっきりと二人の行動の相似性が浮き彫りになる。

 この二人の共通性は原作でも見いだせるし、だからこそ映画ではカットされた、エピローグの内容に行き着くのだが、原作では互いが表裏のような関係性であったのに対して、映画での二人は地続きの関係のようにとれる。そうして、原作とは違ったアプローチでジョンの意思はクラヴィスに引き継がれることで幕を閉じる。

 一体虐殺の文法とは何だったのか。それが具体的にどのようなものであるのかは明示されない。しかし抽象的なこの表現はすでに私たちの身の回りに存在しているのかもしれないし、この先誰かがそれを見つけ出す日がくるかもしれない。それは文法かもしれないし、特定の単語、あるいは表現方法としての何か。つまり人間が無意識に使用していた、とあるアナログな方法を指すのだろう。

言語のルールは人間の脳に由来する、とチョムスキーは主張する。どれ程テクノロジーが進化しようとも、言語と、それにより成り立つ一つ一つの言葉は脳、つまり人間の意識下によって形成されるもので、人工的にゼロから生み出すことはできない。こればかりはアナログな方法でしか存在しえないのである。虐殺の文法とは、もしかすると人々を扇動するような過激な言葉かもしれないし、あるいは人々の感情に訴えかけるような言葉の連なりかもしれない。過去を鑑みれば、それらは戦争を引き起こすこともあれば、抑止することもあっただろう。

第三の世界戦争は核兵器による戦争であると同時に、テクノロジーによるものだ。各国は常にサイバー攻撃に備え、情報の統制や意図的な操作に奔走する国もあれば、それを利用して兵士を集う集団も存在する。テクノロジーの進化と共に必要とされるのは、それに適応できる人間である。過去の戦争で、人間をPTSDから回避させることの重要性を学んだ私たちは、感情を調整することがどれだけ効果的であるのかについて、一切の倫理感などを差し置いてしまえば、理論上は理解することが可能だ。そう、つまり本作で提示された世界がそう遠くないことを指し示している。戦争を引き起こすのはテクノロジーではない。永遠に、あるいは唯一のアナログな存在である人間なのだ。人間の、意識によるものだ。

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