Subscribed unsubscribe Subscribe Subscribe

no.9 「退屈な日々にさようならを」(2016)

 東京と交互に映し出されるこの地方都市はどこだろうと思いながら観ていたところ、彼らのなんてことはない会話の端々でそれが福島県なのだと気付く。放射能の影響で人気の少なくなった林檎公園に訪れる女学生、若き青年は亡き父から引き継いだ会社を畳んでしまった。日常から何かが少しずつ失われていく寂しさと共に穏やかな日常もまた同時に描かれる。

 死の定義が曖昧であることは仕方のないことだ。死の瞬間と死後の世界を現世に伝える術がない。死者が人々の心の中に行き続けるというのは生きている人への慰めの言葉に過ぎず、それ自体はただの記憶でしかない。死んだという事実を知らなければ生きているのと同じだというのなら、いっそのこと知らないままのほうが幸せなのではないか。だが一方で、生きていると思って待ち続けることはしんどいことなのだと、彼女は語る。 彼女が言ったように、死者の「死」を認めないのは生きている人間のエゴイズムだろうか。 死を認め、看取り、埋葬あるいは火葬すること、葬式をあげること。人の数だけ日常は存在するけれど、そのほとんどが他人にとってはどうでも良いことで、日常が物語りたりうるのは本人とそれにかかわった、せいぜいほんの数人にとってでしかない。それは誰かの死についても同じだ。

 行方不明者を待つ者たちの「せめて髪の毛1本だけでも戻ってきてほしい」と、すでに死を受け入れている一方で「もしかしたらどこかで生きているかも」と一縷の望みを捨てきれない姿を思い返した。映画を観ながら、そんなことが頭をよぎりつつも、作品自体はもっと穏やかで暖かな日差しも差していて、シリアスなことを話しているにもかかわらず、なぜか時折笑ってしまう。

たくさんの女があらわれる。思い思いに本や漫画を読んだり、ゲームをしたり、肌の手入れをする清田ハウスの彼女たちはみなどこか退屈そうだ。シンガーソングライターの女の子はマネージャーに諭される。走っても歩いても、どっちにしろそこに「着く」のだから走らなくてもいいじゃないかと。走れば胸が揺れるから。恋人の自殺を見守る女がいる。自らを殺めることを認め、赦したこの女は女神のように美しいが、本物のマリア像を目の前にして何ともいえない表情をする。女たちは、決定的な何かに囚われているわけではないけれど、それぞれに解放される瞬間がある。家から飛び出していく瞬間、歌いだす瞬間、真実を打ち明ける瞬間。退屈な日常に漂う閉塞感に別れを告げた彼女らは皆美しかった。

Remove all ads

【スポンサーリンク】