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no.10 「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」(1991)

 このたび25年ぶりに「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」が4Kレストア・デジタルリマスター版として日本の映画館で公開されることになった。3時間56分という長さに圧倒される一方で作品への期待はますます高まる。実際、そのほとんど全てのショットはこのうえない美しさで瞬きさえ惜しいほどだ。むしろ3時間56分を以ってしてもまだまだ語り尽くせないであろう側面は多いが、それと同時にこれ以上いくら尺を伸ばしたところでこの時代背景と社会、そこに生きる人間の複雑な事情はもはや説明し尽くすことができない事実に行き当たる。

大人たちの抱える問題の意味を理解できなかった幼少期の記憶が蘇る。大人たちが深刻な顔をしていればその内容は分からなくともその場に漂う空気に不安さを覚えていたこと。重苦しさ、やるせなさ、諦め。そういった感情を容易く想起させる。彼らひとりひとりの家庭環境は詳しく説明されなくとも、確実に存在するヒエラルキーは子どもたちの日常をみていれば想像に難しくない。断片的に描かれる彼らの日常を覗き込んでいると次第にひりつきを覚える。

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(C)1991 Kailidoscope

彼らは闇に包まれている。現代の都心のきらめきもなく、わずかな明かりに彼らの顔がぼんやりと映る。懐中電灯、蝋燭の灯り、窓から射す光は頼りないが、そんな光景をみながらこれまで観てきた様々な映画があまりにも明るすぎたのではないかとさえ思い始める。光に照らされた場所だけが正しいとは限らない。闇のなかでは互いの顔さえもはっきりと見えないが、その暗さのなかに彼らの日常は確かに存在し、彼らがいることでその闇は柔らかで優しいものに変わる。闇は見たくないものを隠してくれる。曖昧なものが闇に溶け込むように、社会の抱える不安定さもその闇に誤魔化されているかのようだ。

いよいよ事件が起きる地点まで長い時間が経過する。次は誰が傷つけられるのかと様々な瞬間に緊張が走る。夜間のクラスを退学になった小四は昼間に姿を現わすようになったにもかかわらず空気がどこか張り詰めている。何かはっきりとした原因やきっかけがあったとは言いがたいこの結末は再び夜の闇のなかで迎えられる。人は突然発狂しないし狂わない。それを発作的だとみなすのはそれが自分のことではないからだ。様々な要因が反応しあい、その結末は呼び起こされた。きっかけは単純か複雑かさえ判断のつかないごく個人的な恋のもつれだったかもしれないし、誇りであったはずの父親のあまりに弱々しい変わりようだったかもしれない。そのほとんどは闇に包まれ、観客が目にすることができるのはせいぜい微かに照らされた部分だけだ。

どんな悲劇が訪れようと無情に時間は経過し、たとえ彼や彼女の時間が止まってしまっても季節はめぐり街の風景も社会も変わり続ける。失望や挫折、様々な不安を孕んだ空気と少年の犯した罪に因果があるかは分からなくとも、その社会に彼が存在していたことは変わらない。彼らが無邪気に笑いあって過ごしたほんの一瞬のきらめきがあるからこそ暴力や不条理が、そして結末にみる刃の鋭さと残酷な彼の姿が闇のなかにあっても鮮やかにみえるのかもしれない。

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